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田中龍志郎という人間 [#20田中 龍志郎]

熱い応援をしてくださったソニー仙台FC関係者の皆様。
会社で声をかけてくれて応援してくださった社員の皆様。
ソニー仙台FCにご支援・ご声援を送ってくださったスポンサーの皆様。
毎週熱い応援を毎回毎回してくれたサポーターの皆様。
田中龍志郎に関ってくれたすべての皆様。

ご縁がありまして2年間ソニー仙台FCに在籍させていただき、幸せでした。
この場を借りて感謝の言葉を言わせてください。
ありがとうございました!
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そして、ここまでのサッカーができているのも親のサポートが無かったら間違いなくできていません。
お父さん、お母さん ありがとう。
少しずつ恩返しするから待っててなーーー!!!


今回は少しブログ長くなるかもしれません。
最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
最後の田中龍志郎のブログなので、お許しを!!


まずは、私がサッカーを今も続けていられるきっかけとなる、母のエピソードを話させてください。(笑)
小学校1年生の時、サッカーをやりたい!と言い出したのは私でした。
母からも許可をいただき、サッカーをやる事にしました。
ですが、サッカーの練習が始まると、小学校1年生になったばかりで友達も少なく、孤独でした。
当時の田中は、今と違ってコミュニケーション力0、そして極度の人見知りで、これは今もそうなのですが、泣き虫でした。(笑)
小学校1年生の最初の練習の日。
サッカーの練習が始まると、サッカーの楽しさよりも、友達がいない寂しさが勝ってしまい、私は泣き出し練習を辞め逃げてしまいました。
その時に母に言われた言葉が今でも残っています。
泣き出して逃げた私にこう母は言いました。
「やる前から嫌だって言うな!やってみてから決めなさい!!」
と喝を入れてくれました。
その言葉が今でも鮮明に覚えており、当時このようなことを言われてなくて、
母にサッカーやらなくていいよと甘やかされていたら、間違いなくサッカーをしている今の田中龍志郎はいません。当時そう言ってくれた母にはとても感謝しています。
ありがとう。


まだ私が歩んできた人生でのターニングポイントはたくさんありました。
何個かご紹介します。

【小学生の大切な決断】
小学校3年生までサッカーと野球をやっていたのですが、どちらも試合が土日のどちらかの為、
チームにご迷惑をかけるからと、小学校3年生の時にサッカーを続けるか、野球を続けるかの決断をしました。
どちらも好きだったので、当時は直感でサッカーを続けることを選択しましたが、今考えると冗談抜きに野球の方が断然センスの塊でした(笑)
(見た目は野球少年、中身はサッカー少年、その名もただの詐欺坊主!)
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↑小学2年生くらいの時の弟(賢志郎)との写真。左が私。
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↑小学3年時の野球の写真
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↑小学6年時の試合中に撮れてしまった奇跡の1枚。今と変わらず、欲しがりですね(笑)


【中学生時代の思ってたこと】
中学生の頃、私はサッカーのFC習志野というクラブチームに入っていたのですが、当時通っていた中学校がサッカーの全国大会出場が
常連みたいな強い学校でした。仲の良い友達はもちろん中学校の部活に入っていたサッカー部の人が多かったので、少しクラブチームに通ってる私と、部活に入ってるサッカーの友達と温度差を感じることがありました。
サッカー部に入らないかと誘われていたのですが、この時も直感で部活でやるより、クラブチームでやった方が良いという私の勝手な考えがありまして、FC習志野で中学校はサッカーを学びましたとさ。

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↑中学3年にはキャプテンをやってました。


【高校時代の入学式】
私は地元が千葉県習志野市なので習志野市内の中学校に通っていました。
中学2年生の時、習志野高校の試合をたまたま初めて見たら、ここに絶対行きたいと思い、
たくさん勉強し、習志野高校に入学しサッカー部に入りました。
部員が3学年全部で150人以上いたので、無名の私は目立たないと監督の目に留まらないと考えました。
高校1年生の入学式の前日、母に1ミリの坊主にしてもらい、そしてちょっと悪ぶりたい年頃だったので、眉毛をなんとカミソリでカッティングしたら、すごい強面な顔面になり、先輩に呼び出し喰らわないかなと怯えながら入学式に挑みました。結果、何も言われず、終われ満足です。(笑)
当時から目立ちたがり屋の性格は健在でした。
さすがに写真が見当たりませんでした(笑)


【高校3年時のキャプテン時代】
こんな私でも、高校3年時にはキャプテンに任命されチームをまとめ上げていました。
4番が私です。(笑)
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こんな元気で、お調子者の性格なので、その性格じゃ誰もついてきてくれないと考えた私は、
お調子者を封印し、チームメイトがこの人についてきたいと思われるような行動や言動をたくさんしてきました。
キャプテンには、プレーで引っ張るタイプと、行動や言動で頼もしく引っ張るタイプの2つのタイプがいると私は思います。
私がやったキャプテンは後者で、試合で頑張るのももちろんだけど、言動に伴った行動をしてみんなを引っ張るキャプテンでした。
例えば、朝6:15にはグラウンドへ行き、体幹トレーニングを毎日行ったり、(もちろん自分の為にやっていましたがこれを見て誰かが刺激を受けて、続いてくれればと思っていました。そして毎日こんな早い時間に家を出るからお弁当を毎日作ってた母はスーパー。笑)
年に1回雪が降ったのですが、朝5:00に学校の雪かきに行き、学校のみんなが怪我しないように雪かきをし、それを見たサッカー部員の意識が少しでも変わればと思いやってみたり、ネガティブな発言は絶対せず、どんなに学校の授業後で体が重くてもポジティブに声掛けしたり、当時のサッカー部のコーチが本を貸してくれていたのですが、読み終わるたび貸してくれていて、そこで自分の考え方が固まった気がします。
まだまだありますがこのような行動をしてきました。大きく人として成長できた時代でした。
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高校時代の監督とスタッフは私が変わるきっかけを作ってくれました。
人に本当に恵まれすぎています。


【大学時代】
高校3年の4月頃、縁あって流通経済大学の練習に参加し、こう思いました。
「レベルが高すぎる。(笑) ここでプレー出来たら絶対成長できる!」
そう強く思い、親に相談し、親は「自分が行きたいところに行きなさい。」と背中を押してくれ、入学しました。
無名だった私は入学当初、周りのレベルが高すぎてすごいサッカーが下手な私は本当についていけませんでした。(笑)
大学1年時は、関東社会人リーグで闘い、最後は1年生チームで全国社会人リーグにも少し出場し、地域決勝リーグで少し出場し、勝ち進み、流通経済大学ドラゴンズ龍ヶ崎をJFLへ昇格するという有終の美を飾ることが出来ました。
大学2・3年では流通経済大学ドラゴンズ龍ヶ崎としてJFLを闘いました。
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↑これは大学3年時にソニー仙台FCと対戦した時の、荻原キャプテンと、私です。非常に懐かしいです。

そして大学4年時、どうしてもプロサッカー選手になりたくて。どうしても親に恩返しをしたくて。私みたいな下手な選手でも
プロサッカー選手になれるんだぞと後輩たちに見せたくて。寝る間も惜しみ練習に時間を費やしました。
その結果、大学4年の4月頃、「オーバートレーニング症候群」になってしまいました。
これは心の病でもあり、練習のしすぎで体が疲労しきってしまい限界を超え、サッカーをやりたくない、グラウンドに行きたくないという状態になってしまいました。
毎日夜は眠れず、朝7時頃になり寝て起きるのは夕方。このような生活リズムになってしまい、完全にメンタル共にやられていました。
寮に住んでいたのですが、周りに仲間がいるのが逆に辛くて、頼ればいいのに頼れなくて、大学の授業も出ず、実家に帰りました。
実家に帰り両親に事情を説明したら怒られるのかなあと私は思っていました。
なぜかって?
大学4年の大事な時期にサッカーをやらないということはプロに行く道を自ら遠くしてしまっていたからです。
両親もプロサッカー選手になってほしいと思っていたのでそう思っていました。
でもやっぱり親ってすごいんですよ。
全く怒らず、のんびり今は休みなと。今は休むことが必要だからいつまででもいいから休みな。そう言われました。
そういわれた私は、休みなという言葉にほっとしてしまい、1人で泣いていたのを今でも覚えています。
親ってすごいですよね。
結局、「オーバートレーニング症候群」になった3か月後の7月に、流経大の監督と、スタッフの方に、
「ミャンマーから試合しに来てほしいっていう申請が流通経済大学にあって行くんだけど、サッカーやらなくてもいいから来るだけ来てみない?」
と誘われ行ってみることとなりました。
いざ行ってみると、まあ環境が日本と違いすぎました。
日本ではしっかり整ってる道も、ミャンマーではたくさん道にひび割れや、デコボコしていたり道がすごい荒れています。
ミャンマーの子供なんて靴なんて履いていなかったです。ですが、流通経済大学とミャンマー代表が試合をしているとみんな集まってくるんです。スタジアムに。
そこで私は思いました。
今自分がいる環境が良すぎてて、それが当たり前になっていることに気づきました。
プロサッカー選手になるという環境が整ったところにいるのに、なんで自分はやらないんだ?
そういう気持ちになり、一気にサッカー熱がぶわあーーっと戻ってきてサッカーに戻れました。
当時、流通経済大学の監督やスタッフに声をかけてもらえなかったら今はサッカーをしていなかったのかもしれません。
これは私の中で一つの大きな大きなターニングポイントでした。
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↓そして大学4年時にインカレを優勝できたこと。これは本当に有終の美を飾ることが出来、最高でした!
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かなり長文のブログになり申し訳ありません!
伝えたかったのは今の私は私だけの力でここまで来たのではなく、
周りの人に恵まれ、サポートをされてはじめてサッカーが出来ているということに感謝をするという事です!
口だけで感謝といっても説得力がないと思ったので、エピソードを踏まえて最後のブログで話させていただきました。

サポータ―の方や、社員の方や、ソニー仙台FC関係者の方に、「ブログよかったよ!」とか「ブログ面白い!」など直接言っていただけるのが私のモチベーションだったのですが、
このブログを掲示する頃には会社に私はいないので、直接感想を聞けないのが少し寂しいです。

これからも田中龍志郎はサッカーを続けてきます。
私の力だけでは何もできないことは24年間の人生で身に染みて感じていますので、今後も周りの方々に感謝をして人生を歩んでいきます。

短い間でしたが、私を支えてくれたソニー仙台FC関係者の皆様、サポーター、社員の皆様。
本当にありがとうございました!!!
ではまたどこかで会いましょう!!


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