SSブログ

2011年を忘れない [Sony Sendai FC HISTORY]

クラブ創立50周年企画 ~Sony Sendai FC History~


ソニー仙台FCは今年でクラブ創立50年目となります。

生誕50周年特別企画「Sony Sendai FC History」は、これまでソニー仙台の歴史を鮮やかに彩ってきた選手・スタッフが語り手となって、自らの記憶の中で、今でも鮮明に覚えている思い出の試合や出来事を振り返っていただくコーナーです。

第6回目の語り手は、ソニー仙台FC史上、最高のMFとの呼び声も高い、花渕修平さんです!!


Episode 6


「2011年を忘れない」


サッカー人生を思い起こすと、心に刻まれた試合がいくつかある。
中でも2011年シーズンの最終戦は、今でも色濃く思い出せる。

この年、東日本大震災が発生し、ソニー仙台FCは活動停止どころか、チーム存続の危機にあった。
しかし、多くの方の支援により、何とか活動を再開。後期からのJFL参加を認められた。
だが、その条件は厳しいものであり、他チームが33試合のポイントで争うのに対し、我々は23試合(リーグ戦:17試合+災害復興支援試合:6試合)での戦いを強いられた。
更に、災害復興支援試合に指定された相手は、その年の1位:SAGAWA SHIGA 3位:FC町田ゼルビア 
4位:松本山雅FC 5位:Vファーレン長崎 6位:Honda FC 12位:佐川印刷SC という強敵ばかりであった。

練習や試合が出来る喜びを感じつつも、降格へのプレッシャーにより、体が思うように動かず、開幕から9戦勝ち無し。戦いは困難を極めた。
途中、8月4日の横河武蔵野FC戦は、同点ながらも前半を良いリズムで折り返したところで、大雨による中断。(後半のみ10月に実施し、結局同点) 何てついてないんだろうと思った。

迎えた最終戦(災害復興支援試合)、2011年12月11日(土) vs 松本山雅FC
舞台は松本山雅FCのホームスタジアム アルウィン。
観客は、12,000人弱というJFLとしては大観衆だった。
私はすでに、この年での引退を決めていた。
これまでの大病、大怪我、そして震災と、多くの障害によって体と心が疲弊し、選手としてこれ以上の向上心が薄れてしまっていたことが引退を決めた理由だが、チームの勝利と、何としても残留させたいという気持ちだけが支えとなっていた。

試合は、村田純平のゴールで1-0とし、迎えた59分、橋本尚樹が倒されて得たPK。キッカーは私。
10月23日のブラウリッツ秋田戦で、私はPKを外し0-1で 負けていた。
チームを窮地に追い込んだ敗戦であり、それ以来、何度も夢に出てくるシーンとなっていた。
(実は今でもたまに見る事がある)
キックは、向かって右のポストを叩きゴールに吸い込まれた。
チームメイト(怪我でメンバーを外れたチームメイトも来てくれていた)やスタッフ。チーム関係者やサポーター。そして、応援してくれた家族。多くのソニー仙台に関わる人の想いが、ボールをポストの内側へと運んでくれたと思う。

試合はその後、麻生耕平のゴールで3-0とし、勝利を飾る事が出来た。
現役最後の試合としては、最高の結末であり、最高に熱くなれた瞬間だった。

結局、リーグ戦は17試合で3勝のみ。災害復興支援試合では負け無しだったものの、多くの運もありJFL残留という最大の目標を達成出来た。

あれから7年。

チームは大きく顔色を変え、当時を知っているメンバーは数少なくなって来た。
2011年の苦しみがあって、今のチームがある事を忘れずに、その歴史を紡いで行って欲しい。
サッカーが出来る環境がある事に感謝し、2度目の優勝を全力で掴みに行ってもらいたい。

ソニー仙台FCを愛する皆さま
これからもチームへの変わらぬご声援を、よろしくお願い致します。

syuuhei1.jpg


花渕 修平 

ポジション:MF

宮城県出身。

類まれなるパスセンス、洗礼された戦術眼を武器に、ソニー仙台FC不動の司令塔として活躍。
MFとして全ての能力を兼ね備えており、ソニー仙台FCの歴史上、最高のMFとの呼び声も高い。
彼にしか出来ない、独特のアウトサイドキックから繰り出される美しいパスは、多くの観客を魅了した。




<経歴>

塩釜FC ⇒ 東北学院大学
  
2001年 ベガルタ仙台 入団
2002年 ソニー仙台FC 入団
2004年 埼玉国体で宮城県代表の主将を務め、見事、優勝を成し遂げる。
2011年 現役を引退


nice!(0)  コメント(9)